『親御さんによろしく』
テレビから聞こえてくる、ヒーローらしきおっさんの決め台詞で、いつも何となしに見ている特撮番組が終わる。
正直に言って、面白いかどうなのか判断がつかない。
『時刻はまもなく午後六時になります。六時のニュースをお伝えします』
そしてその後に始まる、ニュース番組。いつもの黒ぶちメガネに七三へアーの中年のアナウンサーが時刻を告げる。
これもまた……狙っているのかいないのか、微妙なところだよな。
「さて、晩飯でも買いに行くか」
誰に言うでもなくそう呟き、Gジャンを羽織り財布の中身を確認。
そろそろ寒くなってきた十一月の気温とは違い、財布の中身は意外なことに、かなり暖かい。
どのくらい暖かいかというと、弁当屋で大盛りが注文できそうなくらいだ。
今日は何弁当にしようか、そんな事を考えながらドアを開けると、ガコッという鈍い音をたてて、開ききる前に途中で止まってしまう。
「――っつ……いったあ、ちょっと横島君、何やってんのよ」
「いや、ここは俺が怒られるところではないと思うんですが」
赤くなったおでこもそのままに、涙目でこちらを睨みつけているのは美神さん。
口だけで手が出てこないことに違和感を覚え、その姿を眺める。
暖かそうな白いセーターの上に、同じく白のコートを羽織り、下は黒いタイトミニをはいている。そして右手にスーパーのビニール袋、左手には布製の手提げ袋を持っていた。
いつもの美神さんからは想像できない、妙に所帯じみた格好。
似合わないことはなただしいが、道理でしばかれんわけだ。
「んで、何してるんすか?」
「……ちょっと頼みたいことがあってね。台所貸して欲しいのよ」
「台所? ……まあいいですけど」
予想外のお願いに答えながら、頭の中で考えをめぐらせる。
スーパーのビニール袋……台所を使わせて欲しい……赤くなった顔……。
これは、もしや恐らく多分きっと――。
「俺に晩飯作ってくれるってことっすねー!!」
忠夫感激! とばかりに美神さんの腰に飛びつく。両手がふさがっている今、相手に迎撃する術は無い、
「んなワケあるかっ!」
……はずだった。まさか喧嘩キックがくるとは。
でもまあ。
「純白!」
良いもの見れたし、良しとするか。
「へえー。あんたにしちゃ、ずいぶん綺麗にしてるじゃない」
横島家の台所を確認しながら、驚きの声を上げる美神さん。
綺麗に磨かれた流し台やガスコンロに、きちんと整理された調理器具の数々。それらは、もちろん俺が片づけたり、買い揃えたわけではない。
ましてや現在進行形で美神さんの興味を惹いている、男の一人暮らしにしては多い食器――しかも可愛らしい――は、言うまでもなく俺だけの物ではない。
「ねえ、なんでこんなに食器があるの?」
「おキヌちゃんと小鳩ちゃんのも入ってますから」
食器棚を覗いていた美神さんは答えを聞くと、俺へと向き直り、そのまま視線で先を促してきた。
いや、促すというか、すでに脅迫めいている気がする。
「最近二人がご飯作りに来てくれることが多くって。でまあ、そのついでにというかなんというか」
ここ最近、おキヌちゃんと小鳩ちゃんがご飯を作りに来てくれることが増えた。
当然その時は一緒に食卓を囲むことになるのだが、いかんせん一人暮らしの俺の家には、それほど食器が無い。
紙製のお皿やコップはあったが、毎回使っていては勿体無いと二人は言い、自分用のお茶碗やら湯飲みやらを持ってきたのだ。
そのついでとばかりに調理器具まで自分のものを置いていった結果、我が家の台所は、料理をしない家主を他所に妙に充実している。
美神さんは興味のなさそうな返事をひとつよこすと、持っていた手提げから包丁やまな板といった調理器具を取り出し、叩きつけるように並べ始めた。
「で、なんでまた俺んとこで晩御飯なんて作るんですか」
スーパーのビニール袋から、これでもかというくらいに大量の野菜を取り出している美神さんに、そう問いかける。
なんでもない普通の疑問のはずだったが、なぜか体をびくりと震わせ手を止めると、どこか遠くを見ながら口を開いた。
「ここんところ、朝昼夜とシロがご飯を作ってくれるんだけどね……肉ばっかりなのよ」
「……はあ」
「はあ、じゃないわよっ! 朝起きてみれば、ステーキだの生姜焼きだの焼き鳥だの!」
「なんだとうっ! 人が週に三・四回も口にできれば万々歳な肉っ! ずるいっ! 俺にも食わせろっ!」
毎食肉料理だけ、というのは流石に勘弁だが、俺だって成長期の男の子。たまには腹いっぱい、肉だけ食べてみたいのだ。
「そう思ったから作りに来てやったんでしょっ!」
「……え? じゃあやっぱり俺のために!」
「ちっ、違うわよ! ほらあのわたし達ばっかりだとかわいそうだから……いやそうじゃなくって」
俺のツッコミに、手に持った包丁を赤い顔でぶんぶんと大きく振り回し始める。
物理的にも精神的にも恐ろしい光景に、その場で固まることしかできない。
多分、動いたら刺される。ここは黙ってやり過ごすしかないだろう。
「……そうっ! シロに肉料理をさせないために消費しなくちゃならないけど、わたし達はもう口にするのはいやだからあんたに恵んであげるってことで、どうっ?」
「そ、それでいいと思います」
包丁の切っ先をこちらに向ける鬼から……もとい、鬼気迫る表情の美神さんから視線をそらさずに頷く。
「わかればいいのよ、わかれば」そう呟いて料理を始めた後姿を見ながら、俺はその場にカなく座り込んだのだった。
……あ、ちょっと出た。
〇その頃の教会
「ピート殿、ニンニクは体にいいでござる。さあっ!」
「いや、僕はヴァンパイヤだかっ……うぐぅ」
「ピート君、返事をしたまえ! ピート君!」
「ねえ、あぶらげっぽいのは?」
「ふおおおぉぉぉ……美神さんの手料理……俺だけが味わえる手料理」
目の前に広がる肉料理の数々に、俺は声にならない声をあげて泣き、食い、そしてまた泣いた。
牛丼、豚カツ、焼き鳥に生姜焼きに唐揚げ等など、節操無く並んでいる品々を次々と胃袋にしまっていく。
「あのねえ、別にあんたのためだけに作ったわけじゃないんだけど」
呆れたようなその声に、ご飯をかきこむ手を止めて真正面を向くと、ちょうど目が合った。
わかってる? 勘違いすんなよ?
そんな視線を投げかけてくる美神さんの前には、こちらとは対照的にあっさりとした味付けの野菜料理ばかりが並べられている。
確かに自分が食べるための分も作ったのだから、厳密には『俺だけが味わえる』とはいえない。かなり無茶な論法ではあるが。
だがしかし。
「でも肉料理は俺しか食べてないわけですし、やっぱり俺だけのためにですよ……ああ素敵なステーキ」
フォークに刺した肉を掲げながらの反論に、美神さんはムッとした顔になったかと思うと、すぐにニヤリと悪戯な笑顔を浮かべた。
その表情にいやな予感に襲われた俺はとっさに体を引く。
だが次の瞬間、フォークの先にあった肉は、神業的な速さで身を乗り出した美神さんの口の中に納まっていた。
不敵な笑顔を浮かべて座りなおし、わずかに口を開く美神令子。
と思ったら、慌てて手で押さえて水を要求してくる。
背中をさすりながらコップを手渡すと、美神さんは急いで口をつけて、口の中の料理を流し込んだ。
「大丈夫ですか?」
「ありがと。……それはともかく、これで私も食べたんだから、あんただけのってのはなくなったわね」
ゼーゼーと荒い息を吐きつつ、涙目で「肉はもういやなのよ」と言いながら睨みつけてくる。
そこまでして意地を張るくらいなら、なんでわざわざ俺のところに来たんだろうか。
というか、そんなに俺のためだけに料理するのがいやなのか。
どうしよう、また涙が出てきそうだ。
「ちょっと、どうしちゃったのよ? ぼーっとしちゃって」
「いやまあその、そんなに俺に飯作るのがイヤなのかなあ、と……いやまあ全然別に良いんですけどね、作ってもらえただけで、HAHAHAHAHA!」
「べ、別にイヤじゃないわよ! ただその、ハッキリあんたのためって言うのは……は、恥ずか、って何言わせんのよ!」
乾いた笑いでそう答えると、ほっぺたをつねられた。
照れ隠しなのかなんなのか、手加減がされていないせいで、少しばかり本気で痛い。
「いひゃい、いひゃいっす」
「もう馬鹿なこと言わない? それなら離したげる」
必死に頷き同意の意を表すと、最後にちょっとだけ捻りを加えて指が離れた。
赤くなっているであろう頬をさすりながら、美神さんを軽く睨む。
「うー、今本気でしたよね? 肉も食われるし……って、あ」
「今度は何」
気が付いたのはたいしたことではないけれど、多分それを口にしたら怒鳴られるのは間違いない。
だから口をつぐむつもりだったのだが、そっけないその一言にカチンときて、思わず言い返してしまった。
「いやあ、たいしたことじゃないんですけど、間接キスだなあって」
本当にたいしたことはない、今時中学生でもこの程度ではなんとも思うまい。
でも美神さんは怒るに違いない。相手が俺ということもあるし、等と考えていたのだが、予想外の反応が返ってきた。
「……あんたねえ、今時そのくらいで喜ぶ奴なんていないわよ……まったく子供なんだから」
「赤い顔したあんたに言われたくないが、子供で結構! だって嬉しかったし!」
「そ、そうなんだ。良かったわね、おこちゃまの横島君」
顔は真っ赤なままなのに、俺を子ども扱いしてくる様子が可愛いらしくて、もっと困らせたくなってきた。
我ながらガキっぽい考えだとは思うが、いいんだよ。自分、子供ですから。
「大人の女の美神さんに、おこちゃまの俺からお願いです」
「……なによ」
警戒心ありありの顔を見ながら、大きく口を開いて美神さんが持っている箸を指で指す。
つまりはそういうことをして欲しいわけなのです。
「あんたねえ、調子に乗るなって何回言ったら覚えてくれるのかしらねえ」
「がっかりだ……大人の美神さんには、これくらい簡単だと思ってたのに。おキヌちゃんとか小鳩ちゃんは頼まなくても無理やりしてくれるのに……美神さんにできないなんて。してもらいたかったなあ」
箸を軋ませ怒りを露わにしている姿にチラチラと視線を送りながら、ねちねち呟いてみせる。
まあ、ほんの少しは期待していたけれど、本当にしてくれるとはさすがに思ってはいない。
命が危険にさらされるであろう一歩手前の段階で挑発をやめ、美神さんのそばを離れようとした時だった。
「そこまで言うならしてやろうじゃない。小娘どもとは違うってことをその体に教えてあげるわよっ!」
「……いや別に無理しなくていいですよ、ほんまに」
「いいからさっさと口開ける。あと、恥ずかしいから目は閉じてなさい」
口調の強さに逆らうことができず、言われるまま口を開けて目を閉じる。
あ、なんかこれ、すごいマヌケというか、無防備過ぎやしないかい? そう思った瞬間、舌の上に料理がのせられた。
んん? この味というか、苦味はどこかで味わった覚えがあるぞ。
「――って、ヤモリの丸焼き!? タマネギとヤモリはきらいっスー!!」
「体にいいんだから、つべこべ言わずに食べなさい! ほら、あーん」
俺を押し倒して馬乗りになると、美神さんは嬉々とした表情でヤモリを次々と口の中に突っ込んでくる。
謝りますから、これ以上は許してください。いや、まじで。
……んっが、ぐっぐっ。
○その頃の弓家・道場
「あのー、わたし、精進料理っていうのだけで良かったんですけど」
「せっかくなのですから、当家の修行も受けておいきなさい。週末ですし二泊三日で、ぜひ」
「仕事で忙しい彼氏持ちってのは面倒だねえ。あたし、明日デートだからパスな」
「喝! 三人とも集中しないでどうするか! あと二時間追加!」
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて満面の笑みの美神さんに、壁にもたれたまま小さく頷き返す。
食った……食い尽くしたよ……満腹になるまでな……。
あしたのジョーごっこ(芸人魂)をしている俺の眼前には、空になった皿の山。
そう、俺は襲い来るチャレンジャー達を、ジョーの様になぎ倒したのだ!
その代償として、身動きとれなくなってるけどな。
だが悔いはない。
いや、やっぱりあった。ていうか、たった今できた。
「ふーんふふーん、よっ、と……しっかしまさか、全部食べるとはねー。ふんふふーん」
上機嫌で鼻歌を歌いながら、テーブルと流しを往復している美神さん。
皿を取ろうとかがむたびに現れる豊かな胸の谷間っ!
流しに向かうたびに揺れる形のいいお尻っ!
これはもう、誘っているとしか思えん。一人暮らしの男の部屋に料理をしに来たという時点で、シチュエーション的にもばっちり。
ここまでお膳立てされて襲わねば、男がすたる。
けれど、動いたら大惨事になることは必至。
美神さんの動きに合わせてわずかに頭を動かしているだけの今でさえ、食道を駆け上ってくるモノを堪えるので精一杯なのだ。
この状況を覆すには、精神が肉体を凌駕するしかないのか。
「横島くーん、洗剤どこー?」
自分の動作の一つ一つが、俺を苦しめているとは思ってもいないのだろう。美神さんは色んなセクシーポーズを披露しながら、今は流しのあちこちをのぞいている。
まさか満腹で動けなくさせておいてから誘惑してくるとは……美神令子、恐ろしい娘っ!
「ねえ、聞いてるー。洗剤どこってば」
棚の上を探そうと爪先立ちになる度に、ちらりと顔を出す形の良いへそ。
流しの下を覗きこむ時に、四つん這いの姿勢から突き出される美しい尻。
これで誘惑しているつもりはありません、とは言わせん。
「ちょっと! 聞いてる?」
そんなアホなことを考えていたせいで、美神さんの声をまったく聞いていなかった俺を、誰が責められるだろうか。
とりあえず、俺の目の前でふくれっ面の誘惑者本人に、その資格はないと断言できるだろう。
「って、大丈夫? しゃべるの、まだ無理?」
なかなか口を開かない俺をにらみつけていた美神さんの表情が、突然曇った。
どうも俺が返事をしないのは、話を聞いていなかったからではなく、食べすぎで動けないからだと考えたようだ。
……本当のことは黙っていよう。優しい嘘って素敵。
「いちおう胃薬持ってきたんだけど……」
そう言いながら、美神さんは持ってきていたバッグの中を探し始める。
胃薬って、もしかして美神令子作の怪しげなヤツではないでしょうね。
『霊薬の効果で食べたものをあっという間に消化。ただし栄養を摂取することはできません。あしからず』みたいな。
「大丈夫よ、ちゃんと市販されてるヤツだから……っと、あったあった」
ジト目で俺を睨みながら取り出した小さな包みは、確かに見たことのある物だった。
確かに食事の前に飲むってのは合理的かもな。食後には水すら口にできない状態に陥ってることもあるし。
とりあえず薬は、もう少し後でいただくことにします。
「忘れないでちゃんと飲むのよ。……飲み忘れると、次の日すごいんだから」
なにやら重みのあるお言葉に、小さく頷き返す。
……って、さっきから会話成立してるけど、一言もしゃべってないよ俺。
「あんたの考えてることくらい、顔見ればわかるっての」
付き合いも長いんだしねー、と楽しそうに言いながら、美神さんはテーブルに肘を着き、組んだ手に乗せた顔をニコニコさせている。
こっちは美神さんが何を考えているかなんて滅多にわからないというのに、ちとずるいんではなかろうか。むう。
「いいのよ、女心は複雑なんだから」
確かに複雑だ。
その顔が赤いのは、余計な詮索をした俺に怒りを抱いているからなのか、自分の台詞が予想以上に恥ずかしかったからなのか、現在進行形で複雑な思いを抱いているからなのか、はたまた全然別の理由なのか。
「なによ、じっと見つめたからって教えてあげるわけないでしょ。それよりも明日はなに食べよっか?」
何も食べたく無いというか、今は食べ物のことを考えたくも無いというのが本音だ。
確かにおなかいっぱいになるまで肉料理のみを堪能したわけだけど、もういい。しばらく肉料理は遠慮します。
こんなメニューを続けられたら、そりゃ肉を食べるのはもちろん、見るのもいやになるわなあ。
「さっぱりと湯豆腐なんかどうかなと思うんだけど」
普段ならぶーたれるところだけれど、今の俺には大歓迎。
何か口にするのなら、それぐらいあっさり味なものじゃないと無理っぽいし。
土鍋もカセットコンロも確かあったよな……雪之丞がかっぱらっていっていなければ、だが。
「さて、それじゃ洗い物済ませちゃおっかな」
鍋といったらやっぱり日本酒よねー、なんてうっとりとしていた美神さんが、ゆっくりと腰を上げた。
この体が本調子ならば、手伝う振りして色々するところではあるが、今の俺には(以下略)。
「……あれ、横島君。口の横、ご飯ついてるわよ」
腰を上げかけた美神さんが、こちらを指差しながらそう言ってくる。そのおかしそうな口調が、なんともむず痒いのは何でだろう。
まあ今は、腕を上げるのもめんどくさいので、保存食にすることにします。
「もう、ほんとに手のかかる子ねー」
溜め息つきつつ手を伸ばした美神さんに、俺の保存食を奪われてしまった。
ありがちだけど、こういうのって本当にやられると幸せな気分になるもんなんだなー。
などとほのかな幸せをかみ締めていた俺を、更なる衝撃が襲った。
「……ん」
美神さんは人差し指の先にくっ付いた米粒を、そうするのが当然であるかのようにそのまま口にしてしまった。
「まったく。私の作ったご飯が、かき込まずにはいられないほど美味しいのは分かるけど、もう少し落ち着いて食べなさいよ」
本人は自分が何をしたのか気付いていないらしく、なにやらお説教を始めた。
だがそんなものが耳には入ってこないほど、俺はドキをムネムネ……もとい、胸をドキドキさせている。
たまに漫画なんかでこんなシーンを見るたびに「このくらい、どうってことないよなあ」なんて思っていた俺が甘かった。
実際に体験してみると、想像以上に嬉し恥ずかしでなんとも尻がむず痒いことこの上ない。
しかもそのお相手が、絶対にそんな事をしないであろうと思っていた美神令子ときた。
「って、ま−た人の話し聞いてないし」
こちらの葛藤を歯牙にもかけず、穏やかな笑みをたたえた瞳が俺を見つめていた。
意識するまいとするほどに、美神さんの指先の感触が蘇ってくるのを止められない。
自分の顔があっという間に真っ赤になっていくのが、鏡を見なくても分かる。
「なに顔赤くしてんのよ、あんた。具合でも悪くなっ……」
台詞が途中で止まる。
と同時に美神さんの顔もみるみる赤くなっていく。
ああもう、あんたが気がつかなければ、何事も無く終わったかもしれんのに。
「あー、うん、おほん」
美神さんは視線をさ迷わせながら、それでも口を開いた。
「こ、この程度でそんなに顔を赤くさせるなんて本当にお子様ね横島君は」
棒読みではあったが、それでも最後まで言い切った。
途端に沈黙に包まれる狭い室内。
しまった。テレビくらい点けておくんだった。
手元にお茶も無いので、視線の落としどころも無く、ただぼんやりと赤い顔の美神さんを見続ける
「……」
「……」
カチコチとなる時の歩みを聞くこと数秒。
向こうも視線の向けどころを見失ったのだろう、まともに目が合ってしまった。
タイミング良く聞こえる犬の遠吠えが、沈黙を加速させる。
なんだろう、この不思議空間は。
思えば美神さんが、理由はどうあれ、俺の所に料理を作りにくるという時点からおかしかった。
GS美神という漫画において、あってはならない展開を望んだが故に生じた世界崩壊の始まりか。
ってアホか俺は。
美神さんをモノにするために、薄給にも過酷な労働にも耐え忍んでいるんじゃろがいっ!
希望を捨てるな、大志を抱け、死ぬなら前向きに!
そう、前向きに。
この雰囲気に酔った振りして、ガバーッて飛び掛って「アホかー」って殴られれば、いつもの俺たちに戻れるさ。
このむず痒い展開をぶち壊すのは、ほんのちょっともったいないけれど……ごめんなさい嘘です。物凄くもったいないです。
だけどこの沈黙には耐えられない。
こんな少女漫画にありがちな状況の真っ只中に放り出されるくらいなら、いつものセクシー&ヴァイオレンス展開に戻った方がいい。
それなりに美味しい思いもしたし、今夜は『分不相応なことはしてはいけない』という教訓を得たことで良しとしようじゃないか。
だが、俺が少しは軽くなった体を動かすより早く、美神さんが口を開いた。
「べ、別に、ちょ、直接、く、口つけてとったわけでもなし、このくらいで照れる奴がおかしい!」
いらんこと言うなー! と、口を開くのはまだ無理なので、とりあえず内心で叫んでおく。
ようやく落ち着いてきたのに、想像してもうたやないかー!
「帰る!」
キッパリ言い切った後、俯いたままだった美神さんは、そう声をあげると、コート片手に靴を履いて飛び出て行ってしまった。
別れ話をこじらせたカップルみたいだな、なんて考えながら、よろよろと立ち上がる。
「ったく、ドアくらい閉めていけっての」
毒づきながら、ひんやりとした空気の流れ込む開け放たれたままのドアへ向かう。
ふと流しに目をやると、洗浄を待っている食器に混ざって、美神さんが持ってきた調理器具が残されていた。
洗って持っていったほうがいいかとも思ったけれど、
「……明日は湯豆腐、か」
美神さんの言葉を思い出し、緩み始めた頬を抑えることもせず、俺はただ小さく笑っていた。
そっか、明日か。
お互いにもう少しうまくやりましょうね、明日は。
ドアノブに手をかけ、星空を眺めながら、心の中のあの人に語りかける俺であった。
「横島さん、なんだか食器が増えているような気がするんですけど」
「おキヌちゃん、それは雪之丞が置いていったんですよ?」
「あのう、横島さん。……この大量のビールって、あのその」
「それはあれだよ、小鳩ちゃん。ピートの奴が『僕は実年齢200才ですから』って言って置いていったんですよ?」
「この調理器具は?」
「それは俺の。いや俺もたまには料理をしてみようと思ったんですよ?」
「この見たことのないお野菜は……」
「そ、それは、それはね、た、タイガーがどっかから採ってきた……あー、それは無理か」
「何か言いましたか? 横島さん」
「聞こえなかったです。横島さん」
美神さんが俺の元を飛び出していってから数日後。……嘘は言ってないぞ、嘘は。
久しぶりにご飯を作りに来てくれたおキヌちゃんと小鳩ちゃんに、彼女達のものではない食器やら調理器具やらが発見されてしまった。
元々飽和状態だったキッチンに、新たに置き場所なぞ作れるわけも無く、見つかることを見越した上で対策を練っていたのだが。
「あれ、本当です。このお味噌もすごく高いやつです」
「おキヌさん、見てください、この胡椒。わざわざ挽かないとだめなやつですよ」
誰かさんの置いていった高級食材やら特選調味料のせいで、言い訳が追いついていないのが現状である。
まったく、いつの間に揃えたのやら。
とがめる様な二対の視線の強さに、説得にかかる労力を考えて、肩を落としたその時。
「横島くーん。今日はねー、いいお肉が手に入ったから……」
バターンと勢い良くドアを開け、楽しそうに入ってきた声は、その場の雰囲気を察してか段々と小さくなっていった。
「あー……お呼びでない? お呼びでない、こらまた失礼いたしました」
そのままフェードアウトしてくれると助かったのだが――このタイミングで来ないでくれると、もっと助かったのだが――ドアを閉める直前、あっけなく女子高生コンビに捕まっていた。
「あら、奇遇ね二人とも。横島のところにご飯作りに来るなんて、なんて健気なのかしら、お姉さん応援しちゃうわ。横島君もこんな可愛い子達をはべらしちゃって調子に乗るなよこのクソガキ」
誤魔化しとおすんなら最後まで貫けよ!
「最近、事務所でご飯食べないと思ったら、横島さんのところに来てたんですね。仕事の打ち合わせなんて嘘ついてまで。応援してくれるのなら自分のものは持って帰ってくださいね美神さん」
健気なことだよな、美神さんも……そらおキヌちゃんだって感激のあまり包丁砥ぎだすさ!
「毎日ご飯作りに来てくれるのは申し訳ないから自炊するっていうのは嘘だったんですね横島さん。はべらすのなら私とせめて母くらいにしてくださいね」
ご飯は俺が炊いてるんですよ、だから嘘じゃないよ。そしてそのマニアックな提案はいったい誰の入れ知恵か!
この間とは違う理由で声を出せないので、これまた内心でツッコミを入れていく。
ツッコミを入れたところで情況が好転するとは思えないので、結局は無言でいるしかないんだけどな。
ギロリとにらまれた俺なんかに許されたのは、この言葉だけ。
「三人まとめてごっつぁんです!!」
この日の夜、俺が真っ白な灰になっていた理由はみんなの想像に任せるぜ。
植木等氏に捧ぐ。
いや、リアルでその世代ではないですけど。
内容に関しては、特になし。
こういうだらだらとした話が(読むのも書くのも)好きだなー、と再確認したくらいです。