「要芽お姉ちゃん」

 弟に呼ばれ、私は緩みそうな表情を引き締め、振り返り答える。

「何かしら、空也」

 振り向いた私の視界には、にっこり笑顔の空也。その笑顔は、まだまだ子供――八歳の小学二年生だ――なだけあって、カッコイイというよりは、可愛らしいといった表現がぴったりとくる。
 本人は“可愛い”といわれることに抵抗があるようで、そう言われると、ムッとした顔になる。だから言わない。
 空也は顔立ちも可愛らしいが、仕草や言動に至るまで、その全てが愛らしい。
 これは私、柊要芽だけの意見ではなく、誰も口には出さないが、私たち柊六姉妹の共通意見であることは、まず間違いなかった。

 空也は可愛い、だから姉妹の誰もが空也を甘やかし、可愛がる。
 雛乃姉さん、瀬芦里・巴は空也に甘い。甘やかし放題で、怒るなんてことをしない。
 海に至っては、空也の全てを全肯定している。まるでその身の全てを空也に捧げるかのような勢いで。
 もっとも高嶺の空也への態度は随分と屈折したものだった。もしかしたら『好きな子に意地悪』なんて子供らしい愛情表現なのかもしれないけれど。
 そして私。厳しくしなければ、と思うものの、最後まで厳しくすることができない。空也に嫌われたくない、という思いもあるし、あのしょぼんとした顔や、怒られても私の後を付いてくる様を見せられては、厳しくするなんて到底無理。
 結局は、最後の最後で甘やかしまくってしまう。
 誰も彼もが空也を甘やかした。だから空也は精神的に成長しなかった。

「空也を親戚の家に預けようと思う。ま、良い男になる修行だと思えばいい」

 ある日、お父様が私たちの前でそう宣言した。空也がまともに成長するために、十年ばかり他所へ預けるというのだ。当然私たちは反対し、空也も嫌がった。
 空也が私を好きだと言ってくれて、お姉ちゃんと離れたくない、と言ってくれたのは、正直とても嬉しかった。
 しかし、ここで甘やかしては何も変わらない。今までと同じで、空也は成長しないだろう。
 厳しくするのは私の役目。そう自分に言い聞かせ、空也を突き放した。

「お父様の言うことを聞きなさい」

 私の言葉に、空也はうな垂れ、小さな声で何かを呟いた。

「……また、捨てられるんだ」

 自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。このまま空也を親戚に預けたら、十年経ってもこの家に、自分を捨てた家には戻ってこないかもしれない。そんな気がしてならなかった。
 空也の言葉をお父様に伝えると、渋い顔をして考え込んでしまった。お父様も空也が嫌いなわけではない。むしろ、血が繋がっていなくとも、唯一の息子として可愛く思っていることは事実だ。だからこそ空也の将来まで考えて、家から出すことを決めたのだろう。
 しかし、今の状態の空也を他所へ出すのはまずい。柊の家に帰ってこないのならまだしも、もしかしたらこの家のことを、私たちのことを忘れてしまうかもしれない。


「空也を修行へ出すのはやめた」

 数日後、お父様は空也を除く私たち姉妹を自室へと集め、そう宣言した。
 その言葉に歓声を上げる私たち。だが、お父様はその喜びに水をさすように、再び口を開いた。

「ただし、今のように空也を甘やかすなら、一年後に修行に出す」

 海だけは、よくわからないといった顔だったが、私たちは神妙な顔で頷いていた。

「だからといって、むやみに厳しくしろというわけでもないぞ。まあ多くは言わないが、アイツが一人前の男になった方が、お前たちも嬉しかろ」

 大げさに肩をすくめ、呆れたような口調で言われた言葉に、私を含めた何人かの顔が赤くなる。さすが、同じ遺伝子を持った姉妹。男の趣味も似るってことね。

「えー、空也は立派な男の子だよ」

 そう反論した海に、お父様が、「いざという時に守ってくれる男の子の方が良いだろ」なんて言い聞かせている。その台詞に私は内心頷いていた。空也には、私が胸を借りて泣けるようないい男になってもらいたい。いや、そうなってもらわないと困る。
 だが海は納得がいかないのか、腕組みをしてうーんと唸っている。そして瀬芦里は、私が守ってあげるのになー、なんて言っているし。  少し困り顔になったお父様が、その場の雰囲気を変えるように、「さて」なんて言いながら、両手を合わせた。

「それじゃ、お前たちは行っていいぞ。あ、要芽。息子を呼んできてくれ」
「空也ですか?」
「息子と言ったらアイツしかいないだろう」

 そう言ったお父様の顔は、ほんの少しだけにやけていた。


 空也を連れて戻ってくると、ブーブー言いながら妹達が部屋から出てくる所だった。その場に残ろうとしたらしいが、男同士の話し合いだ、と追い出されたらしい。各人それぞれが、思い思いの言葉を空也にかけていった。
 後に残された空也は、繋いだ手を離しはしないといわんばかりに、力を込めて私の手をギュッと握っていた。

「おーい息子ー、遅いぞー。パパ、ぐれちゃうぞー」

 扉の向こうから聞こえてきたお父様の声に、空也はびくりと体を震わせた。そして、そのまま動こうとしない。
 私はしゃがみこんで、空也の顔を覗き込んだ。瞳に涙を溜め、それでもこぼすまいとする表情は、こんな時になんだけれど、とても可愛らしかった。この子にこんな顔をさせたくはなかった。
 頭を優しく撫でながら、ゆっくりと落ち着かせるように言葉をかける。

「大丈夫よ、空也。これからもずっと、私たちと一緒にいるためのお話なんだから」
「……一緒にいられるの?」
「そうよ。そのためのお話なんだから、泣いたりしないの」

 空也の涙を拭ってやり、おでこに軽く口付けをする。そうして空也が落ち着くのを待ってから、背中に手を添えて一緒に部屋へと入る。
 何気なくその場に居ようと試みたが、お父様にあっさりと見破られ、部屋から追い出される。「居てもいいけど、わしの膝の上な」なんて言われて残れるわけもない。
 せめて廊下で立ち聞きしようと思ったが、扉が閉まる直前。

「要芽、廊下で立ち聞きなんてはしたない真似、しないよな」

 満面の笑みで言ってくれた。さすがは腐っても柊家の現当主、ただのセクハラ親父ではないということか。心のうちで苦虫をかみ殺しつつ、不安そうな空也に微笑んで見せた。甘いかもしれないけれど、これくらいは許されるだろう。
 扉に耳を押し当てたいのを我慢して、私も居間へと向かった。


「……遅いわね」

 誰に向けてのものでもない言葉が漏れる。
 空也がお父様の部屋に入ってから、かれこれ一時間が過ぎようとしていた。何を話しているのか予想も付かないが、長すぎる。
 私たち姉妹がいる居間は、この一時間の間にすっかり居心地が悪くなっていた。
 最初は空也の修行がなくなったことで、明るい雰囲気だった。しかしあまりの長さに、次第に不安が大きくなってきていた。
 雛乃姉さんが体調を崩し、巴が付き添っていなくなったことも、大きく影響していた。誰か一人が欠けただけで、こんなに寂しくなるとは思いもしなかった。
 これで空也が居なくなっていたら、と思うとぞっとする。

「私ちょっと見てくるわ」
「あ、私も行くよ〜」

 暗くなった雰囲気をかき消すかのように勢いよく立ち上がった瀬芦里に続き、海も立ち上がる。この辺が、空也を甘やかしている、と言われる由縁だろう。
 けれど、今の私は二人を止める気はなかった。できることなら、私自身も行きたいくらいだ。
 二人が出て行こうとした時、空也とお父様が今へとやってきた。

「お父さん、お話長いよ〜」
「ははは、すまんすまん。ちょっと盛り上がってな。な、空也」
「うん。盛り上がった」

 お父様にくしゃっと髪をかき混ぜられて、くすぐったそうに、そして楽しそうに空也は返事をした。部屋に入る前のあの表情はまったく見られなかった。
 ……なんだろう? 空也が少し大人っぽくなったような気がする……贔屓目かしら?

「ほれ、息子よ。皆に言うことがあるだろう」

 お父様に促され、空也は緊張した面持ちで一歩前へと出た。

「今日から色々頑張るので、よろしくお願いします」

 一瞬の沈黙。

「はあ? 色々ってなによ? そこんとこはっきりさせないと意味ないんじゃない?」

 高嶺が皆の疑問をぶつけると、空也はお父様と視線を交わし、笑顔で答える。

「それは男同士の秘密だから言えないの。それじゃ、雛乃お姉ちゃんのところに行ってくるねー」

 てってけてー、といった擬音が付きそうな走り方で居間を飛び出す空也。
 その後を、教えなさいよーと大声で言いながら、高嶺が追っていく。
 空也が元気になったのは良い、凄く良い。けれどなんだろうか、この寂しさは。

「ねえ、お父さん…空也と何のお話してたの?」
「空也も言っていただろう、男同士の秘密だ」
「ちぇー、なんか面白くないのー」
「なんだ瀬芦里、ヤキモチか? なんなら今日は一緒に寝るか?」

 瀬芦里にアカンベーと舌を出されたお父様は、私に向き直った。物凄く嫌な予感がする。

「要芽、今日は久しぶりにパパと寝」
「お断りします。いったい私をいくつだと思ってるんですか」
「十四歳、中学二年生。充分許容範囲だぞ。瀬芦里も海もな」
「私たちが許容範囲じゃないんです」
「そーだ、ショウと寝るくらいならくーやと寝るもんねー」
「……凛、最近なんだか娘達が冷たいんだよ……」

 わざとらしい泣きまねに、「嘘はいけないんだよ」と海が純真な目をしながらツッコミを入れる。もちろん全て狙ってやっているのだけれど。

「まあ、娘達と寝るのはまた今度にして」

 へこたれないお父様の様子に、溜息が漏れる。今度こそ黙らせようと決意を固めた私が口を開くよりも早く、お父様が言葉を続ける。

「パパ、今日は空也と一緒に風呂に入って、一緒に寝るから」

 唖然とした表情の私たちに、してやったりの笑顔を向けて上機嫌で去るお父様。
 これからも空也と過ごせるというのに、私の心を幸福ではなく寂しさが満たし、頭の中には、なぜか「敗北」の二文字がちらつく。
 と、この場にいる瀬芦里と海と目が合う。力なく笑いあう私たち三人。
 虚ろだった笑い声は、いつの間にか心からの楽しいものになっていた。


 明日からは、いつもと違う日常が始まる。
 そんな不思議な予感を、私は感じていた。




  <続く>



 といった感じで始まる、もしも空也が沖縄に修行に行かなかったらどうなったよ?
 な話を書いてみようかな、と。
 単に要芽お姉様が不幸にならない話が書きたいなー、と思って。
 ちなみに年齢の話。
 この時点では、
 ひなのん=16歳 要芽=14歳 瀬芦里=12歳 巴=11歳 高嶺=9歳(早生まれ)
 海アンド空也=8歳
 で考えてます。
 ひなのんだけ適当。後は作中などの情報から考えてみました。


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