商店街へと続く並木道。そこに等間隔で置かれたベンチの一つに、祐一は腰掛けていた。
 彼はだいぶぬるくなったペットボトルのお茶を飲みながら、手にした雑誌を読んでいる。
 時刻はもう夕方になったとはいえ、季節は夏。そのベンチが木陰にあるといっても、暑いものは暑い。
 彼は時折めんどくさそうに顔を上げ、商店街とは反対の方向へ目をやり、また雑誌に目を落とす。
 と、目の前を通り過ぎようとしていた女性が、祐一に気がついたのか足を止め、声をかけた。

「……この暑い中、なんでこんな所で雑誌なんか読んでるのよ?」

 不思議そうなその女性の声に、顔を上げずに祐一は答える。

「待ち合わせしてるんだ、勝手に動くわけにはいかないだろ」
「ふーん。本当は勝手に動くと、迷子になるからなんじゃないの、相沢君?」
「この暑さの中、よくおうちから出てこれたな、かおりん?」

 からかうように声をかけてきた女性――美坂香里――に、更に意地悪く返すと、彼は雑誌から顔を上げ、にっと笑って見せた。







「夏休み、ある日の夕暮れ時」

                                                   written by まちす







 手にしていた雑誌を鞄にしまいこむと、改めて祐一は香里に話しかける。

「とりあえず、お急ぎでなければ座りませんか? お嬢様」
「……誰がお嬢様よ」

 苦笑しながらも悪い気はしないのだろう、香里はおとなしく祐一の隣に座る。

「で、冷房依存症のかおりんはこの暑い中どちらへ?」
「かおりんはやめてちょうだい、相沢君」ふぅ、と小さく溜息をつきながら答える。

 香里は暑さに弱い、と祐一が知ったのは夏休みに入ってからだった。遊びに誘おうが、勉強を教えてもらおうと声をかけようが、自宅から出てこようとはしない。そんな時の彼女の決まり文句は「私の家でならいいわよ」だった。呼ばれて行ってみれば、設定温度いっぱいまで冷やされた彼女の部屋。「なんで夏に長袖を着なければならんのだ」とは祐一の弁である。
 そんな香里がまだ陽も沈みきっていない時刻に外出している、ありえない、いやあってたまるか。すっかり温まってしまったペットボトルを握り締めながら祐一はそんな事を考えていた。

「……何考えてるのか分からないけど、お茶もらってもいい?」
「ああ、いいぞ。もうぬるいけどな」お茶を渡しながら返答を促す祐一。「で、どちらへ?」
「私も待ち合わせよ、栞とね。晩御飯の買出し。相沢君は誰と?」
「彼女」

 祐一のごくあっさりとした短い返事に、お茶を噴出す香里。彼女の着ている大き目のTシャツと、膝上までのミニスカートに染みが広がる。
 ここまでヒットするとはな、と考えながら慌ててハンカチを渡す祐一。外出の際には名雪かあゆ、秋子さんから『はんかち・ちり紙チェック』が入るため、常にその二つは持ち歩いている。蛇足だがもう一人の同居人、沢渡真琴はされる側である。

「…か、彼女って、そんな話、聞いてないわよ」

 まだ多少むせながら聞いてくる彼女に、「まぁ、冗談というか嘘だけどな」と返し、軽く睨まれる。

「あゆを待ってんだよ。図書館に忘れ物したんだと」
「図書館?」眉をひそめる香里。
「物凄く意外そうだな、おい」
「だって、相沢君が図書館なんて。……お昼寝?」

 そうに違いない、と一人頷く香里を軽く小突いてから祐一は口を開く。

「ちゃんと勉強してるぞ。俺もあゆも」
「なんだか、物凄く、本当に、本当に、意外だわ」

 わざとらしく区切って話す香里に、こちらもわざとらしくしかめっ面をつくり、祐一が事の起こりを話す。

 そもそもの始まりは、あゆの「なぜなにどうして攻撃」に祐一が答えられなかったことにある。七年ぶりに意識を取り戻し、長いリハビリに耐え、春も終わる頃になって退院したあゆ。そんな彼女にとって見るもの聞くもの全てが興味の対象になった。携帯電話や壁掛けテレビなどの家電知識や、生活していくうえでの一般常識などは、祐一にも答えたり教えたりすることができた。
 問題となったのは、程度の深い浅いはあったが専門知識である。

「梅雨ってなに? どうして梅雨になるの?」
「台風ってどうしてできるの?」
「電気ってどうやって作るのかな?」

 一例を挙げるとこんな具合である。分かっているようで分かっていない疑問ばかりである。
 祐一にとって、更に頭が痛かったのは、あゆの質問が全て自分に向けられるということであった。何回か嘘を教え、あゆに「うぐぅ」と睨まれたり、名雪に晩御飯を生姜のフルコースにされたり、仕舞には秋子さんにオレンジ色のブツで脅されたりした。この夏休みの苦い思い出である。
 まじめになって、教科書片手に説明するも、

「気圧ってなに? どこからどこまでが熱帯なのかな?」
「うぐぅ、電子? 分子と原子?」

 説明すればするほど質問が増える始末である。段々と言葉すくなになる祐一を見て、あゆも困ったような顔を見せる。「これはいかん」と秋子さんに相談し、考え出した案が、『図書館で分かりやすい本を探し、あゆに纏めさせよう』作戦であった。
 作戦の概要は、子供向けの一般書や初歩の入門書を祐一が見繕い、あゆが読み、纏める。そして夏休みの終わりに水瀬家で発表する、と言ったものである。要は小・中学生の自由研究である。
 当初、この作戦は真琴も一緒であった。当人も「真琴もやるー」と乗り気だった。しかし図書館で騒ぐ、ものを食べる、寝そべって漫画しか読まないという事態が改まらないため、祐一の判断で作戦から外されていた。
 その後、真琴は親友である天野美汐に泣きつき、もとい、協力を要請し、彼女の監督の下で作戦行動を続けているようだ。

「と、いう訳で負けないためにも図書館通いは欠かせんのだよ」
「また勝負になってるのね。毎回毎回、よく飽きないわねー」
「うるせえ、挑まれた勝負から逃げるのは男じゃないんだよ」

 パタパタとTシャツの胸元を摘まんであおぎながら、呆れたように感想を口にする香里。
 そんな香里に目をやりながら、握りこぶしを作り反論する祐一。
 少しして、困ったように口を開く。

「……あ〜、香里君」
「なによ、香里君だなんて気持ち悪いわね」
「……今日は白なんだな」
「……は?」

 困惑顔を向けてくる香里に、握りこぶしをサムズアップに変え、ついでにウインクまでしてみせる祐一。彼の視線が、自分の大きく広げられた胸元にあることに気づくと、みるみる顔が赤くなる。そのまましばらく口をパクパクとさせていたかと思ったら、突如大声をあげる。

「な、何見てんのよ!」
「ブラジャーとおっぱい」
「ふ、普通の顔して、な、何言ってんのよ! エッチ! スケベ! 変態!」

 勢い良く体を祐一に向け、ポカポカと体のあちこちを叩きながら罵り続ける。さすが学年主席、罵詈雑言のバリエーションも豊富だぜ。などと思いながらも、祐一は再び口を開く。

「香里君、パンツも白なんだね。清潔感溢れてて非常によいと思うぞ」

 魅惑の三角地帯まで見られていたことに気づき、更に力強く、より大声になる香里。さすがに耐えられなくなり、体を叩き続けている手を防ぎながら、祐一も反論を開始する。

「あのなぁ、そんな格好してるんだから、見られないように気を使えよ」
「しょうがないじゃない、暑いんだから。それより! 見ないように気を使いなさいよ!!」
「無理だ。こんな良いもん見逃せるか」
「もうっ! 馬鹿! むっつりすけべ!」

 と、仲良く喧嘩していたところに携帯が鳴り、着信を告げる。祐一は右手で香里の手を掴むと、もう片方の手で器用に電話に出る。

「もしもし、はい……」

 話し始めると、香里が手を離そうと奮戦を始める。手に力を入れてみたり、腕を振ってみたりする。「ん、もう」と困った風に言う彼女の手を離すのがなんとなく惜しくなり、抵抗されるたびに逆に強く握り返す。しばらくすると彼女は抵抗をやめ、大人しく握られたままになる。

「……わかりました。また後で連絡します。それじゃ」
「誰からだったの?」
「ん、秋子さん。佐祐理さんから電話があって、今日の夜は水瀬家でバーベキューだそうだ。んで皆に声かけて、商店街で名雪と合流して買い物してきてください、だと」
「いつもながら突然ね」
「で、美坂姉妹はどうします?」
「今日はうちの親いないし、参加させていただくわ。それで、手を離して欲しいんだけど」
「やだ」
「どうしてよ?」

 それで買い物に出てきたのか、と思いながら香里に「なんとなく」と返事をし、再び電話をかけ始める祐一。名雪と佐祐理さんとの電話の間、握っていた香里の手が抵抗を再開する。親指で手の平をくすぐり、握り返すとやめるものの、少しするとまたくすぐり始める。そうしながら、時折顔を覗き込んできたりする。
 長いような短いような時間が過ぎ、電話が終わる。

「うし、お互いの待ち人が来たら商店街に行こ……」
「ええ、そう……」

 祐一の言葉が終わる前に返事をした香里だが、彼女の言葉も途中で途切れる。二人の視線の先には、唖然とした顔の少女が二人いた。

「……うぐぅ、二人ともなんだか仲良しだよ、栞ちゃん」
「……私を放っておいて、祐一さんとイチャイチャしてるお姉ちゃんなんて嫌いですー」

 いつ来たのか分からないが、二人の前にはすでに待ち人が来ていた。待ち人達の視線が繋がれた手に注がれているのを見て、祐一は慌てて手を離そうとするが、今度は香里が離そうとしない。

「ちょっ、香里離せって!」
「なによ、相沢君が離してくれなかったんじゃない」

 そのやりとりを聞いた待ち人達の目が、ゆっくりと祐一の顔に向けられる。香里はそんな二人を無視するかのように手を繋いだまま立ち上がり、妹に話しかける。

「栞、今日の晩御飯は相沢君の家でバーベキューになったわよ」
「………」
「なんで睨んでるのよ。ほら、買い物行くわよ」
「なぁ香里、いい加減手を離せって」
「いやよ」

 栞を軽くあしらいながら、祐一と手を繋いだまま腕を絡め商店街に向かう香里。その後も祐一の手を離せコールは無視されたままだ。と、それまで置いてきぼりにされていたあゆが、祐一の左手に絡みつく。

「ボクはこっちの手でいいよ」
「えうー、あゆさんまで裏切りですー。こうなったら私はおんぶしてもらいますー」

 元気良く宣誓すると、勢いをつけ祐一の背中に栞が飛びつく。

「いてっ! 三人とも離れろって! 暑い!」
「なによ、ほんとは色んな感触が気持ちいいくせに」
「祐一君、むっつりだよ」
「祐一さんはむっつりなんですか?」

 三人に言いたい放題言われる祐一。なんとか栞を降ろしたが、彼女はその後もベストポジションを探し、色々な箇所にひっついたり離れたりする。

「あー! もうっ! 恥ずかしいし、暑いから、全員離れろーー!!」

 抵抗もむなしく、引きずられる祐一。
 そんな彼の叫び声が、夕陽に照らされた商店街に、その後何度も響き渡るのだった……









  <完>



  あとがき
 初KanonSSは美坂香里嬢のSSになりました。
 前に掲示板でも書きましたが、彼女はKanonヒロインズの中では一番好きなキャラなんですよ。
 にしても、もうちょっと暑さが残ってる時期に書けばよかったですね……
 ちなみにこのSSは、d.remix 〜dumiwo remix〜様に投稿しました。


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