仕事を終え、私が柊家の門をくぐったのは午後九時を少し回った位だった。
朝家を出る時に、「遅くなるかもしれないから、晩御飯の用意はいいわ」なんて言わなければよかった、と後悔しながら車から降りる。
もしかしたら晩御飯の用意をしてくれているかも、と淡い期待をしていたため、晩御飯は食べていない。
晩御飯が残っていれば、それを空也と二人で食べる。
何も残っていなければ、空也に何か作ってもらって二人で食べる。
私は勝手にそう決めていた。
空也が食事を済ませていたなら、改めて何かを食べる必要はない。
ただ、私が食べている所に居て、話し相手になってくれるだけでいい。
きっと、優しい空也のことだから、「姉様は甘えん坊だね」なんて言いながら付き合ってくれるはず。
十年も待って、せっかく恋人同士になったのだから、一緒にいる時間はたくさん作りたい。
そう思うけれど、現実には私には弁護士の仕事があって、離れている時間が長い。
だから私が家に居る時には、なるべく空也と一緒に居たい。
私と空也、二人だけの空間にいたい。
誰にも――愛すべき家族にさえも――邪魔されずに、ただ二人っきりでいたい。
重い女だ、と自覚はしていても、この思いは止められない。
嫌われたくないと思いながらも、この独占欲の強さはどうにもならない。
空也はそんな私を受け入れてくれた。けれど空也は優しいから、本当は無理をしているのかもしれない。
私と付き合うことを苦痛に感じてはいないだろうか? 不安になる。
「こんなことを考えるなんて、疲れているのかしら」
頭を軽く振り、暗くなりつつあった思考の海から抜け出す。
空也は私を選んでくれた。そして、ちゃんと私の傍にいてくれる。
最愛の弟にして、私の男である空也を信じよう。
そう結論付けて、私は柊家の玄関を開けた。
「ただいま」
そう声をかけながら、玄関に入った私を、尋常ではない濃さのお酒の匂いが襲う。
確かにどんちゃん騒ぎをするのが好きな家族ではあるけれど、家中が酒臭くなることはめったに無い。
「あ、お帰りなさい、要芽姉さん」
靴を脱いでいる私を出迎えてくれたのは、私のプレゼントしたペンギンエプロンを身につけ、料理の載ったお盆を手にした巴だった。
「は、早かったんだね」
「ええ。摩周君が頑張ってくれたからね」
「あ、あはは。そうなんだ」
あえてもう一人のの名前を出さなかったことに気付き、苦笑する巴。
「もえー、つまみが切れたぞー!! 早くしないと、クーヤがそれはそれは大変なことになるにゃー!!」
「行くわよ、巴」
「あ、あう」
居間から瀬芦里の声が聞こえてくる。ずいぶんご機嫌みたいね、ふふふ。
まごまごしている巴をおいて、居間へと急ぐ。
お酒の相手としては許可しても、つまみとして食べることは許さないと言ってあるのに。こればかりはあの子といえども許せないわ。
お仕置きが必要かしら? その場合は、もちろん空也もね。それはそれで楽しいし。
「ただいま」
なるべく感情を出さないように、居間にいるみんなに改めて帰宅の挨拶をした私の視界に、あの女が映る。
「あら、要芽ちゃん、チャオー」
「なぜ居る」
「あん、相変わらず冷たいー。そういう人は、もっと飲みなさい!」
私の皮肉をいつものように軽く受け流すと、お酒を勧めてくる。
こんな女のお酌でなんて、飲めるはずも無い。
「いらないわ」
「あん、空也ちゃんが作ってくれたお酒が飲めないっていうの? ひどい姉ねー」
相手をするのも煩わしく、一言で却下した私に、聞き逃せないカウンターを入れてくる。
なんて生意気。
何時の間にか一人で手酌で飲みだしたこの女を放置し、居間を見回し空也を探す。
――いない。
瀬芦里に絡まれながら困ったように飲んでいる巴。
高嶺をからかいながら、楽しそうにグラスを空けている海。
雛乃姉さんは、イタチに説教をしている。
――空也が、いない――
瀬芦里を問い詰めるべく近づく私に気がついたのだろう、巴が近づいてくる。
丁度いい、この際だから巴に聞いてしまおう。
「要芽姉さん。く、空也なら台所にいるよ」
「…そう、ありがとう」
私が問いかけるより早く、聞きたかったことを教えてくれる巴。
相変わらず気が利くわね。
空也がいないとなれば、居間にとどまる理由は無い。
あの女もいることだし、さっさと台所に行って空也にただいまを言おう。
「……なんなの、この暑さは……」
たどり着いた台所は、そんな言葉が漏れてしまうくらいの暑さだった。
その台所に空也はいた。入り口に背中を向け、ぐったりと椅子に座りながら。
「……燃えた、燃え尽きたよ、ねーたん」
「くー君、もうゆっくり休んだ方がいいよ」
「でも、まだ」
「大丈夫。料理は作れるだけ作ったし。カクテル用のお酒も尽きたし」
「それもそうだね」
「マッサージ、する?」
「ありがとう、ねーたん。それじゃ……」
そう言うと、空也は辛そうに両腕を上げ始めた。
その両腕を、嬉しそうな顔で掴もうとする歩笑。
ムカッときた。
「空也、ただいま」
「んぎゃっ」
「うわ、くー君。あ、要芽さん」
空也に帰宅の挨拶をしながら、首をひねる。ありえない角度で曲がる空也の首。
そんな空也の様子を、おろおろとしながら見ていた歩笑が私に気がつく。
そして、怯えたような、それでもどこか非難がましい目を私に向けてくる。
やっぱり可愛いわね、そんな余裕を持ちながら歩笑の視線を受け止める。
「い、今なんだか悲鳴が聞こえたんだけど、なにかあったの?」
「うわ〜、大変だよ〜。くーやの首が、ありえない方向に曲がってるよ〜」
空也の悲鳴を聞きつけたのだろう、巴と海が台所に入ってきた。
「な、治して。できれば優しく」
「わかった。お姉ちゃんが治してあげるからな」
その二人に助けを求める空也。
巴が「えい」と可愛らしい掛け声とともに、空也の首を元に戻す。
「ひぎいっ……。戻った戻った」
「くーや〜、大丈夫〜、もう痛くない? お姉ちゃんが痛いところ、舐めてあげるね〜」
「頑張ったね、さすがに男の子だ。偉いぞ、空也」
恐らく酔っ払っているのだろう、巴が優しく空也を抱き締めている。
海に至っては、空也の首をペロペロと舐めている。この子は酔っているのか判らないわね。
私に気づくことなく、二人に甘やかされている空也。
そんな光景を見て、歩笑が小さくため息をつきながら、私を見つめ直す。
なんでこの子にまで同情されてるのかしら。だんだんと惨めで情けない気分になってきた。
私がせっかく急いで帰ってきたというのに。
空也と一緒に居たいがために急いだのに。
目当てだった人物は、恋人である私に気づくことなく、目の前で他の女といちゃいちゃしている。
やっぱり空也は、私なんかよりも……。
もっとも思い描きたくない結論に考えが至るにおよんだ時、私の中の弱い私が、不意に顔を出した。
――やめて、出てこないで。
――こんなことで、涙なんて流させないで。
零れ落ちそうな涙を誰にも見られたくなくて、私は無言で台所を後にした。
あとがき
久々更新の姉しよSSは、またもや要芽姉様ものに。
姉様ラブ、なこともありますけど、私自身ネガティバーなので書きやすいのかも。
今回の前編は割とシリアスでしたけど、後編ではラブラブものになる予定です。
早く書き始めねば、です。
実験的に、行間を大きくして、「」の前後の一行開けをやめてみました。
読みづらいようであれば言ってください、直します。