「あのボロアパート、あるといいわねー」
珍しく鼻歌なんて歌いながら、上機嫌でハンドルを握っていた令子さんが、突然そんな事を口にした。
「……急に何言い出すんですか?」
「んー、ほらここの世界って、かなり変わってるでしょ」
「ええ」
「だから、横島君のうちが無かったら、面白いかなーって」
進行方向を見たまま俺を一瞥もせず、のどの奥でククッと笑いを噛み殺しながら、楽しそうに言う。
いや、楽しそうというには、笑顔が黒い。
きっとこれは、あんたにもびっくりサプライズがないと、潰す。ってことなんだろう。
「その時、あんたがどんな顔するのか楽しみでさー」
「そのために送っていく、なんて言い出したんですね」
「当然よ」
美智恵さんが帰り、、お茶の後片付けを終えると、すでに外は暗くなっていた。
いつまでも事務所にいるわけにもいかず、帰ることにした俺を、令子さんが「車で送ってあげる」と言ってくれたのは、素直に嬉しかった。
令子さんの近くにいられる、というのもあるが、帰りの電車賃が浮くというのが大きい。
たかが二百十円と侮るなかれ、なにせこの時代、缶ジュースが百十円で買えるのだっ!
あともう十円あれば、二本も買えるんだぜ!
消費税三%、万歳!
……いや、自分でも貧乏性だなあとは思うけれど、染み付いた習性は消えないんだよなあ、うん。
座りなれた助手席に収まり、令子さんの運転に身を任せ自分で自分を慰めたりする。
そんな事を考えながら、もうすぐあのアパートに到着、という所で令子さんの最初の台詞である。
まあ、確かに何が起きてもおかしくない状況ではあるが、あのボロアパートはなくならんでしょう。
「あ、ほらあるじゃないですか!」
「……チッ……」
ホッと胸を撫で下ろす俺とは反対に、悔しそうに舌打ち一つする令子さん。
そのまま乱暴にアパート前に車を停める。
「んじゃ、また明日」
そう言って車を降りる俺に、なぜだか令子さんまでついてきた。
「なにキョトンとしてんのよ。あんたの部屋、行くわよ」
「……はっ! まさかいきなりそんな…それ以上!?」
ガスッと脳天直撃の拳骨をかますと、半眼で俺を睨む。
「変な妄想ばっかりしてんじゃないわよ」
「じゃあ、なんでまた?」
「……野球は九回二アウトからなのよ」
「……はあ」
「……諦めたらそこで試合終了なのよ」
これ以上何があるっちゅーねん。アパートもあるし、問題はないと思うんだが。
まさか、俺の部屋に美少女がっ!!
三つ指突いて「お帰りなさい」とか、裸エプロンで「ご飯にする? お風呂にする? それとも、あ・た・し」とかなのか!?
ま、まさか美智恵さんが居るとかなのかっ! 「それ以上も……ありよ」なのか!?
「……いい! ……すっごくいい」
「だから、変な妄想ばっかしてんじゃないっての」
ぺシンと俺の頭を叩き、カツカツとヒールの音を立てながら、さっさと二階へと上がっていく令子さん。
慌ててその後に続く俺……あ、パンツ見えた。
下着が見えていることに気が付かず、そのまま上りきると二階の廊下へと歩を進める。
「……ちょっ、横島君!」
「すんません、ピンクに目なんて奪われてませんっ!」
何かに驚いたような令子さんの声に、飛び退って謝る俺。
「見るつもりはなかったんすよ、本当ですよ。ただ上を見たら俺の視界に飛び込んできただけで!」
「何でもいいから、さっさと上がってきなさい!」
どうやら令子さんが俺を呼んだのは、別件だったようだ。
くそう、謝って損した。
「なんすか? そんなに慌てて、美智恵さんでも居ましたか?」
「このアホたれ! これ! これ見なさい!」
俺の首根っこを引っつかむと、令子さんはドアへ押し付けるように顔を向けさせる。
俺の目に飛び込んできたもの、それは。
「な、なんじゃこりゃぁぁっっ!!」
コメント
アパートがなかったら、横島君は野宿だったのでしょうか?
はたまた、事務所にお止まりなのでしょうか?
よもや、令子さんちにお泊りだったのでしょうか?(これはない
まあ、あったからいいんですけども。